さーもんのゲーム与太話

ゲームの話と与太話

八月、何某、生の縁

昨日、学生時代の友人の誕生日を祝う会に出席した。
出席といっても友人宅で遊びながらお菓子を食べ話すだけのものでそう大仰なものではない。

同級生の友人なので向こうも27歳になったわけで、この年齢まで来ると「果たして誕生日を迎えて年を一つ重ねることは祝福すべきことなのだろうか?」と誰もが考えることだと思う。
「将来」というものが子供の頃のようにただ輝くものではなく、辛く苦しいものも多いことだとわかってきてしまうからこそこんな考えが浮かんでしまうのだろう。
そして前途多難な道のりがこれからも続くことは想像に難くないけれど、それでも「前回の誕生日から1年間どうにか頑張って生きてきたこと」とか「誕生日にそばにいて言葉を贈ることができる、あるいは遠くにいてもメッセージを送ることができるような関係にあること」とかそんなものをひっくるめて、誕生日にはおめでとうを言いたいしおめでとうを言われたいなと思うわけです。

会ではおそらく15年ぶりくらいに人生ゲームで遊ぶこととなった。まあ何というかお金を払うマスにばかり止まってお金をもらえるマスには止まれず、職業がランクアップした次のターンに止まったマスの効果でフリーターになり、約束手形の海に飲まれて開拓地に沈むという散々な結果に終わったものの、童心に帰って遊ぶのは楽しかった。

友人の仕事の話だの恋路の話だのを聞いてひとしきり盛り上がったのち夜に解散した帰り道。シャッフル再生でイヤホンからヨルシカの「八月、某、月明かり」が流れてきた。この曲の歌詞に『人生、二十七で死ねるならロックンロールは僕を救った』という歌詞がある。「27クラブ」という概念があり、27歳で死ねば逆説的に自らに音楽の才があったと証明できるという意味だと思う。

自分は今別に音楽をやっているわけではなく、それ以外の何かで才能を証明したいと思っているわけではない。わけでないが……27になる友人の誕生日を祝って人生ゲームで遊んだ8月の夜の帰り道、生憎の曇り空で月明かりはなくとも、来月には27になる自分がこの曲を聴いたことには作為めいたものすら感じてしまって、今この時この瞬間だけに書けるものがあるんじゃないかと普段とは少し異なるスタイルで書き散らしている。

前述の通り、自分は音楽をやってるわけでも、芸術的、技術的あるいは肉体的に何か才能を磨いているわけでもない。なのでヨルシカが歌詞に込めた想いとは乖離してしまうことは承知の上で「生きる意味」に端を発して思いつくまま取り止めもなく書いていくことにする。

このブログを継続的に読んでくれてる人にとってはわかることだと思うが、自分は好きなモノがかなり多いタチだ。そしてそんな好きなモノ・コト・ヒトがそのまま生きる意味にもなっている。
今死んだとしたら多々悔いはあれど「まあ好きなモノがたくさんあってたくさん楽しめて幸せだったな」と思って逝ける自信はあるし、好きなモノが全てなくなってしまったのなら生きていく意味なんてあるのか?と思ってしまう。「今後何かまた好きになれるモノが見つかるさ!」と生きていけるほど前向きではないし、その場ですっぱり生を辞めてしまうほど後ろ向きでもないので、ダラダラと無気力に生きていくことになると思う。
それを考えると、つまりすでに自分は好きなモノに救われている人生だと言えるだろう。

ところで、何かを好きになる時、「この作品が好きだ」「このキャラクターが好きだ」「この歌が好きだ」「この人が好きだ」と、好きになるモノは何でもいいがそんな時、妙に俯瞰して見てしまう瞬間というのがある。
「これを好きだと言うのは本心からではなく、これを好きだと言わないと、これまで何かを好きになることで培ってきた価値観や判断基準、ひいては自分自身や人生が瓦解してしまうから好きだというんじゃないのか?」という疑念が湧いてくるのだ。
お前という人間はこういうモノを好きになる人生を送ってきた。ならば今目の前にあるこれを好きにならないわけがない。だから好きだと言わなければならない。
いい年して思春期のようなことを言うが、そんな問いかけをしてくる誰かが頭の中に生まれてしまうことがあるのだ。「ああお前はそれを好きだって言うだろうな。じゃないと今までのお前が空虚なものになっちまうから。じゃあそれは本当に本心から好きだって言えるのか?」

答えは「それでも好きだと言える」でいいんだと今は思っている。本心から好きになることと、何かを好きになることで自分を形作ることは相反するものではない。だからアイデンティティを自己防衛するような好きになり方も存在していいんだと思う。
かなりわかりづらい話になって申し訳ない。自分でもきちんと言語化できていない概念で説明が不十分になってしまっていることは否めない。


結論としてそこにどんな理由があれ、好きになったモノこそが自分を形作り、生きる意味になっていくと言うのが今の自分の人生観だ。だから27で死ぬとしても俺の好きになったモノたちは俺を救ってくれるだろう。
でももっとたくさんの好きに触れていきたいから、もっと長く生きたいと思うために、好きなモノから派生して更にたくさんの好きを増やしていこうと思う。好きなものが多いほどこの世はずっと楽しいってことを知っているから。

そうして好きになったモノたちが生きるためのよすがになっていく。そんな日々をこれからも続けていければ……うん、実に幸福な人生じゃないか。

週末に迫ったRSR出演アーティストの曲を、ロックンロールを聴きながら夏の夜に深く思索は続く。